復活祭
こないだクリスマスだったのに、あっという間に復活祭(イースター、イタリア語でPasqua)の時期になりました。
街角いたるところで「おめでとう!」という挨拶が交わされています。
復活ということで思い出すのが、本田哲郎神父の話ですが、いつも本当に共感させられます。
『 春 』 3F(27.3x22cm) 泥・岩絵具と玉虫箔
…人間はどんな死に方をしたとしても、死に方で、この人失敗だったとか、成功した人生だったとか、決め付けられないよ。どんな無様な死に方であっても大丈だよ。どんな死に方をしたとしても、そこに“復活の命”っていうのがあるんだ、それをイエスがもろに示した。復活って見える形でじゃなくてね、死んだはずのイエスと逢ったよ、とそういう弟子たちの体験の積み重ねでしかないんですけれどもね。あっそうか死んで終わりじゃない、ちゃんとしかも満たされた状態である、というね。
(中略)
…イエス自身が「我が神よ我が神よ、なんで私を見捨てたのか」と命を失くしたわけでしょ。あの状態で隣の十字架につけられていた盗賊たちから、「お前ほんとにキリストなら十字架から降りてみろ、俺たちを救ってみろ」とさんざん言われて、出来ない自分ってものがはっきり現れた訳ですよね。そして「我が神よ我が神よ、なんで私を見捨てるのか」という言葉で息絶えた。それはかっこう良く詩篇の言葉を祈ろうと思って、最初の言葉を言ったのではなくて、本心から、こんなに頑張ってやったのに、神様は私を助けてくれないの」神も仏もあるものか、みたいなそういう死に方をしたってことですよね。イエスの死に方見てよ。そしたら人間て。どんな死に様でも、それでとやかくいわれることではないんだ、どんな死に様であったとしても、復活のキリスト、弟子達は出逢ってるし、あっそう、あれで終わりでなかったんだ、とね。(本田哲郎)
日蓮も法難続きで弟子が殺されたり、島流しにあったりで、良いことなんか全然無かった。法華経を信仰したら、現世安穏って経文に書かれてあるのに何でや、と言って99%の人が去っていった。
それで日蓮は叫ぶのです。正しい事をしてるから難に会うんや!と。
キリストにしても日蓮にしても虐げられた人と一緒に泣きながらオロオロしながら、人生を終えたと思います。後世には聖人のように評価されていますが。
でも私にはその方が聖人君子ぶって上から目線で教えを説いてるより、何万倍も人間として共感できるし、信頼出来るのです。
Buona Pasqua !
バッハ イースターオラトリオ