芸術作品の修復 2
前回硬いテーマにもかかわらず、思いがけない大きな反響をいただきました。
安易にはじめてしまいましたが、このテーマは予想以上に手強いものだということに気づき、どう続けるかしばらく考えあぐねていました。
掘り下げればきりがないので、(一冊の本になってしまいます。)
今はとりあえずできるだけ簡単にまとめて、順番も前後するかもしれませんが、後から思い出した時に追記する形にしようかと思います。
「 蝶 」 7x9cm 岩・泥絵具
修復の作業に取り掛かる前の不可欠な科学的方法による絵画調査について
大きく分けて以下
- 可視光線(落射光+斜光線)による調査
- 紫外線、ナトリウム蒸気ランプ光線、顕微鏡
- X線及び赤外線(内部調査)
例えば、あの有名なレオナルド ダ ヴィンチによる『最後の晩餐』
注)修復期間は1978-1999年に及ぶ。
作者の技法の失敗からすでに制作当時から痛みが始まる。
それから何度にも及ぶ修復と呼ばれる無神経な加筆によって、ダ ヴィンチの原作部分はほとんど失われていたが、
徹底的な科学調査によってどこが加筆部分か、カビや汚れ部分が明らかになったのです。
私も修復中に訪問しましたが、当時どこに 何が描かれているか判別不明の状態でした。
「最後の晩餐」 レオナルド・ダ・ヴィンチ サンタ・マリア・デレ・グラツィア教会
ここで、芸術作品と修復に関する"時間"という問題があります。
前回取り上げた、 チェーザレ・ブランディは芸術作品には3つの時間があると述べている。
1. 作者の側からの作品の表現の持続期間。
2. 作品創造プロセスの終わりから私達の意識が作品を現在に取り戻す間の時間。
3. それを鑑賞する人の意識の中にある芸術作品の認識が生まれる瞬間。
これ、哲学すぎて 難しい問題なんですが、結局作品を新品に戻すのではなくて、
芸術作品への時間の配慮が重要であるということを言っています。
続く…
Il restauro dei dipinti e delle sculture lignee. Storia, teorie e tecniche
Giuseppina Perusini
Del Bianco Editore
芸術作品の修復 1
ただ古典技法を習得したいが為に、アカデミアで修復の授業を受けた私。
この修復理論というやつ、修復家になるわけでもなし、取っつきにくくて、こんなの一銭の得にもならないよなぁと思っていたわけです。
でも、これを勉強出来て良かったと、今は本当に思います。
ミニアチュールの作品 「ロンド」と「ノクターン」
多くの人は、修復とは"壊れているものを元どおりに戻すこと"と思っているのではないでしょうか?
そういう間違った概念によって、大切な文化財がダメージを受けている場合があります。
イタリアの美術品の修復技術は超一流ですが、それには基盤となる理論(理念)に基づいて行われています。< br />
イタリアの修復家・美術史家であるチェーザレ・ブランディ(1906-1988)
http://www.sangensha.co.jp/author/author-BrandiCesare.htm
がその理念を確立しました。
4点にまとめています。
1. 識別 La riconoscibilità
2. 可逆性 La reversibilità
3. 適合性 La compatibilità
4. 最小限の介入 L'intervento minimo
つまり、わかりやすくいうと、
1.原作と修復したところの違いが識別できること。
2.介入した場所が将来別のより良い修復方法が見つかったときに、取り除けること。
3.修復した場所と原作が調和していること。
4.そして修復の必要最小限の介入。
です。
これって難しく言ってますけど、良く考えると、文化財とその作者へのリスペクトに溢れているのです。理論・理念というより哲学というものに近いような気がします。
次回もっと例をあげて詳しく説明します。(続く)
バジリカータ 食の紀行
イタリア中部大地震と日本での台風の犠牲者と被災者の方々に心より哀悼の意を表します。(こんなのんきな投稿してお許し下さい。)
先日バジリカータ州の友人宅へ行ってきました。毎日ご飯作ってもらって美味しい物食べさせてもらって、海や山で思いっきり日本での疲れを癒してきました。
ここの海はイタリアの形を長靴にたとえれば、土踏まずの位置にあたる。
ズッキーニの花の天ぷら
ズッキーニのペーストであえたパスタ
チャンボッタ
トマトとルーコラのサラダ
リコッタチーズ
盛り合わせ
材料の野菜
夕食にピアディーナ
好きな物挟んで。
ピッツァ
山にラザニア持っていってピクニック
バーベキュー
サルシッチャが焼けた。
手作りジャムをはさんだ手作りのロールケーキ
大体、昼食は昼の2時、夕食は夜の10時というリズムです。
バカンスのお伴にはこんな本。
早く仕事モードにしなければ。。
銅版画制作
来年の個展に向けて銅版画制作を始めました。
銅版画は日本画と共に私にとって重要な表現方法です。
ひょっとすると日本画よりも好きかもしれません。
さらに、版を酸性液に浸けて腐蝕させるエッチングなどのやり方と、腐蝕させないメゾチントと両方行います。
それぞれ難しい技法で、普通はどちらかを選ぶものなのですが、どちらも捨てがたい。
不器用で効率とか考えられない性格のようです。(笑)
で、一応今年はメゾチントの方をやっています。
はてさてどうなることやら。。
試し刷りを見ながら、メノウ棒でトーンをつけていきます。
こういう道具を使って画面に無数の傷をつけていきます。
そこが真っ黒になります。そしてイメージの部分を舐めして白く浮き立たせるのです。
大変骨の折れる仕事です。
ベルソー2種
今回は工房の自動ベルソーを使うことが出来ました。それでも丸2日間かかりました。
普通手でしたら、1ヶ月ぐらいかかります。
これからイメージを作っていきます。
トスカーナを離れてわかったこと(3)
そのトスカーナへの郷愁を埋めるために、古代ローマやギリシャ文化に想いを馳せて創った作品が、"海が聴こえる"シリーズ となりました。
以下が ↓2005年に大阪の楓ギャラリーさんで開いた個展に私が寄せた文です。
"海が聴こえる"
南イタリアには古代ギリシャやアラブ・ノルマンディーなどの異国文化の影響を受けた芸術が数多く残っています。
それらはすべて地中海を通じて伝えられました。
スペイン、シチリア、ギリシャ、イタリア等々、現在では国は別々ですが、古代にはそれらの地中海沿岸地域は一つの大きな文化圏だったのです。
トスカーナで11年間暮らした後、南伊に移り、同じイタリアでも大きな気風の違いがあるのに驚きました。
人々は古代の昔より海を愛し、変わることなくゆったりと暮らしています。
太陽・月・星・海…自然が静かなリズムを奏でています。
そんな中でこれらの作品は生まれました。
「月が昇った」 90x150cm 岩・泥絵具と銀箔
人間万事塞翁が馬、 とはこのことで、この作品が縁でイタリアのある美術評論家と知り合うことになり、幾つかの企画展にも参加しました。
僭越ながら紹介しますと、その評論が以下です。↓
「私はひとりのアーチストです。- クミコ・ハシヅメは言う。- しかし人間として、平和のための文化を流布することに無関心ではいられないのです。」
クミコ、日本人画家、京都の美術大学とフィレンツェのアカデミアで学び、日本画とイタリア絵画の融合を東洋の哲学を基盤にして図る。
彼女の作品は空・木々・雲などの自然的要因と教会・トスカーナ地方の建物などの建築的要素がゆるぎなく一つの調和を形づくっている。
ある作品ではシュールレアリズムの愛撫するような手法によって夢かうつつの世界が描き出される。それは、無理やり引き出された色彩表現ではなく、深い思考から導き出されたものである。
”月が昇った”では砂の材質そのもので描きこまれた円柱と貝殻そしてアーチ・海・空が影のような雲に巻き込まれながら調和する。左手の地平線上には小さな月が、あたかも唇を微かに動かしてこぼれ出るささやきのように現れる。
最高級の白ワインとドビュッシーの前奏曲に伴われながら、クミコ・ハシヅメの絵は言葉の遊びと空想へといざなう。
美術評論家 ジャーダ・カリエンド
「貝の時間 Ⅰ 」 6F(41x31.8cm) 岩・泥絵具と金箔
「貝の時間 Ⅱ 」 6F(41x31.8cm) 岩・泥絵具と銀箔
「海が聴こえる」 3F(27.3x22cm) 岩・泥絵具と銀箔
「海の向こうへ」 SM(22.7x16.6cm) 岩・泥絵具と銀箔
この5点を含めて、約30点の新作品を並べた、楓ギャラリーさんでの個展は、今から思えば私にとって反転攻勢だったと思います。
これをもって、このシリーズは一応終わりまして、南伊については又折々に述べていきます。
トスカーナから離れてわかったこと⑵
確か、特急か急行列車で早朝ミラノを出発し、深夜にシチリア島のシラクサに到着するというのがあった。
まさにイタリア半島を千数百キロも南下する行程である。
それをフィレンツェーサレルノ間を良く利用したものだが、それだけでも南北の格差を実感できる。
フィレンツェを出発すると、しばらく美しいトスカーナの緩やかな起伏のある牧歌的な風景が広がっている。
数々のルネサンスの画家に愛された風景である。
徐々にその風景が険しく、雰囲気が変わってくるのだが、
そうなるとそこはもうラツィオ州である。
ローマ・テルミニ駅に着くと異様に長い停車時間があり、
それまで乗っていたビジネスマン風の人がみんな降りてしまって、代わりに大きな旅行鞄を持ったおじさんおばさんや、里帰りなのか?学生やミリタリー風のお兄さん達がのりこんでくる。
イタリア語よりもナポリ方言を話す人の方が多くなり、私などはさっぱり解らない。
そしてヴェスヴィオ火山の勇姿が見えてくると、間もなくナポリである。
それからは火山灰が蓄積されてできたのではないかと思うような、
緑の少ない土地にスラムのような街が見え隠れしながら進み、長いトンネルを抜けるとサレルノに到着する。
「ローマから南はアフリカ」と揶揄されるが、その通りインフラの遅れがローマを過ぎると顕著に感じられる。
マフィア(ナポリではカモッラと呼ぶ)のせいなどと言われるが、
それだけでなく、問題は複合的に重なって、根が深いものだと感じる。
「北で稼いで南で使う。」とも言われるが、私はそれは違うと言いたい。
政府がお金を使うのは、やはり経済の発展した北や中部で、南は後回しなのである。その例はあげればきりがない。
そういう状況で人々は仕方なく、ここから去って北ヨーロッパやアメリカへ渡って行った。
今もここにいる人は、諦めと哀しみを心の奥深くに纏って暮らしているのである。
日本では公開されていないと思うが、フランコ・ブルザーティ監督、ニーノ・マンフレディ主演の『パンとチョコラータ』という映画が、まさにその南イタリア人の心を表現していた、忘れられない良い映画だった。
岩波ホールでもやらないのだろうか?
『パンとチョコラータ』pane e cioccolata 1974年(昭和49年)第24回ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞、また同年ダヴィド・ディ・ドナテッロ賞で欧州ダヴィド賞を受賞、翌1975年(昭和50年)にはナストロ・ダルジェント賞最優秀原作賞を受賞、1978年(昭和53年)には第44回ニューヨーク映画批評家協会賞外国語映画賞を受賞、同年の第3回セザール賞では最優秀外国映画賞にノミネートされる。
主人公ニーノが出稼ぎ先のスイスで、自分のアイデンティティを否定しながら、生きようとする葛藤を自虐的にコメディーに描いている。人生で一度でも挫折を経験した者なら、このニーノに共感し、泣き、笑うだろう。
つづく。
トスカーナから離れてわかった事 ⑴
シエナに二年間、フィレンツェに十年間、トスカーナで合計十二年間暮らした後、
南イタリアのカンパーニア州に引っ越しました。
トスカーナとカンパーニアがこれほどまでに違うとは…大きなカルチャーショックでした。同じ国とは思えないほどでした。
そもそもイタリアが一つに国になったのはたったの150年ぐらい前の話で、
それまでは都市国家で、それぞれが競い合っていたのですから、当然といえるのです。
そして、それ以上に大きな文化圏という括りから見ると、イタリアはローマを境に分かれるかもしれません。
つまり地中海文化圏とそれ以外です。人々の生活スタイルが明らかに違います。
南イタリアは同じラテン系のスペイン、北アフリカやギリシャの方に似ている。
トスカーナは北のゲルマン系の文化の神聖ローマ帝国?が混ざっているように思われます。
で、ルネサンス美術大好き人間が、そういうものの何もないところへ行ったわけですから本当に哀しい思いをしました。
制作においてもイスピレーションが なくなって、枯れていくような気分でした。乗り越えるのに2,3年かかりました。
ざざーーん!
パエストゥム、紀元前7世紀から9世紀頃まで栄えた都市です。
以下詳細 ↓
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%A0
それから有名なのがポンペイですね。
教科書にも載っているアレクサンダー大王のモザイク画もここにありました。
ポンペイについて、以下詳細 ↓
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%82%A4
お時間ある方はお散歩してみてください。↓
https://www.google.com/culturalinstitute/project/world-wonders?view=grid&hl=ja
ここに実際に立つと「根深ければ枝しげし、源遠ければ流れながし」という言葉を実感できます。
当時イタリアのどこよりも高い文明で、ルネサンスもここから来ているのが分かります。
つづく。。